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真面目ネタ

命について考える日

今週の月曜日、つまり7月9日

佐藤慧さんという、現フォトジャーナリストの「命」についてのお話があった。

彼は、ザンビアでの活動を主に行っている。


もともとのきっかけは、遠藤周作氏の「深い河」という本を読み
その本はインドのバラナシで、ガンジス川に身を投じに来ている人々がいるという話なんだけど
実際にそんなことがあるのか、という思いの元インドにいったことだそうだ。


そこで、ガンジス川に修道院の人の手によって流されていく人々を見て
自分が知らない世界はいくらでもある、ということで、NGOとしてアフリカもザンビアに入国。

以後、ザンビアやほかの地域とかかわりながら、写真をとっている。



もともと、ロックミュージシャン志望だったという慧さん。
いまはフォトジャーナリストをしているが、それは伝えるという手段の一種で、
それがどう形を変えるかわからないと言っていた。


この会に参加して思うとこはたくさんあったなー。
オレはRAD好きだから、『愛し』と『祈跡』が、少なからずこういう話になると、考えの根底を作ってるんだけど。


慧さんは「死は選べない」と言っていた。
それは、いつどのいうな形で命が奪われるかわからないということと同時に、
「もう死ぬしかない」という状況に置かれている人も少なからず居るということだ。


慧さんは、そんな人たちとともにすごし、いろんな体験をしていて、その(おそらく)一部を話してくれた。
ここでそれを話してしまうのは、あんまりよくないと思うから割愛して。

結局、人の死に方は様々あるわけだ。


生きたくても生きれない人がいて、それを考えずに生きていくことは傲慢なのか。

慧さんの考えでは
「そんな人が目の前にいたらもちろん放っておけない。だけど全世界の人をそうするのは無理だ。」
「世界の人々のその全部が可哀そう、助けてあげたいと思うこと自体が傲慢だ。」
というような感じだった。

考えることができても、直接手を下すことはできない。そんな世界がたくさんあるわけで
オレはその一部も知らないに等しいとおもった。

いくら、知識や見聞として、貧しい人がいると知っていても、まだオレは何も感じていないらしいということもわかった。

まずは、感じなくては。
被災地の支援に関しても同じだと思う。

実際に被災状況を知らない人々が、募金やボランティアにそれ相応らしい献身的な態度は、なかなか取れないだろう。


だからオレも、たぶんそんな感じで、どこかで「別の国」という意識があったと思う。いやあった。
そして、おそらく今も、「別の国」が潜んでるんだと思う。

じゃあ、慧さんは何を糧に、その活動を続けているか。

慧さんは「軸となる幸福論」と言っていたが、これは「人が幸せになるために自分が頑張っている」
という考え方ではなく、「人を幸せにすることが、自分の幸せ」という考えだった。

オレは、今回のお話で、この言葉が聞けただけですごくすっきりした気がした。
人を助けるってことは、特にベクトルがはっきりしていなくても、助けること自体に意味を持つと思った。

たぶん、オレが愛し症候群だからかもしれないけど、愛するってそういうもんだよなーって。

そして、愛することなしには、人って救えないのかもなーって。

だから、慧さんが言っている「目の前の人」っていうのは、少なからず、自分を賭してまで
助けるっていう対象で、その人のためなら命を削れるっていうことなんだろうなーって。

それってすごい難しいことだと思うし、逆にシンプルかもしれない。

自分が好きな人だけ守って、よくわからん人はほっとく。

それが、相手が求めてることかどうかは、あとは相手次第。
相手が自分を受け入れてくれないなら、それは仕方ない。
でもそれは乗り越えられる気がする。


とまぁ、この辺まで考えました。
命っていうか、最後の方「愛する」みたいな話になったねw

まぁ、こういう気恥ずかしいことは、基本的にオレが素で話すことはないからなー。

午前4時クオリティだね←

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